藤枝~島田
古東海道跡
東海道が建設された後でも大井川の洪水が起こり水が押し寄せると、旅人はこの碑がある旧東海道を歩いたそうです。
前回の旅で見た藤枝の商店街通りとは打って変わり、店などが無く東海道の松並木が佇んでいる道路を暫く歩きました。
上青島の一里塚跡
日本橋から51里だそうです。
島田~金谷
東見附跡
島田の江戸方入口です。
島田宿も他の宿と同様に入口が枡形になっていました。
問屋場跡
飛脚10人が待機していたそうです。
下本陣跡
島田宿は1604年の大井川の氾濫によって流失してしまったそうです。
幕府の援助によって宿場周囲に土手をつくり1616年に復興を果たしたそうです。
上本陣跡
大善寺
午前6時の鐘で大井川の川越しの始まりを告げ、午後6時の鐘で終わりを告げる役割をしていたそうです。
しかし、太平洋戦争の際に鐘が供出され川越しの鐘を告げる鐘は無くなってしまったようです。
現在では新しいものが取り付けられていますが、毎月1日,15日と大晦日のみに撞かれているそうです。
ここを左に進むと大井川の大堤にたどり着きます。
私は間違えて右に進んでしまい、大井川の手前で大堤に軌道修正しました。
右に進むと大井川橋まで一直線で行くことができるようです。
大井川駿岸
大井川を渡るにあたって札場などがあった施設です。
札場の再現です。
大井川を渡るためのチケットみたいなものです。
博物館前に公園がありましたので10分ほど休憩を取りました。
本当はもっと休憩したかったのですが、皮膚に食い込むタイプのダニがいたので早々に引き上げました。
金谷~日坂
大井川を渡ると金谷の町に入ります。
東海道では約10kmコンビニが無いため、このファミリーマートで軽食を買っておくと良いです。
特に金谷の石畳や小夜の中山で体力消費が激しいため、カロリーメイトなどエネルギー原資を買うと良いかもしれません。
清水川という小さな川に鯉のぼりがかかっていました。
www.city.shimada.shizuoka.jp
佐塚屋本陣跡
現在の佐塚書店に本陣跡の札がありました。



柏屋本陣跡
角屋脇本陣跡
定飛脚問屋跡
民間の飛脚で江戸と京・大阪間を月に3度往復したことから三度屋と呼ばれていたそうです。
金谷の一里塚跡
江戸日本橋から53里目だそうです。
金谷の石畳に行くには金谷一里塚の左にある架道橋をくぐり右折します。
不動橋
「西入口土橋」「金谷大橋」と呼ばれ、金谷宿の西方入口だったそうです。
この坂から「中山新道」と呼ばれ、我が国初の有料道路で城山を経て日坂に至ったそうです。
金谷坂石畳
現在石畳があるのは箱根峠、金谷坂、中山道十曲峠のみだそうです。
金谷の石畳は町民の協力によって430mが復元されたそうです。
石畳復元の際に滑らないことを祈願して作られたそうです。
芭蕉句碑
「馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟」
明治天皇御駐輦阯碑
明治天皇が茶園の開墾地を上欄したことの碑だそうです。
諏訪原城跡の反対側には茶畑があります。
あたり一面茶畑で圧倒されました。
茶畑の上にあるファンは、風力発電かと思っていたのですが違うそうです。
これは「防霜ファン」と言い、霜を防ぐものだそうです。
丁度、旅系YouTuberのたけちよ倶楽部さんの動画を観ていて分かりました。
youtu.be
諏訪原城址
カフェ「こもれび」の裏に諏訪原城跡に行く道があります。
諏訪原城は武田勝頼の家臣である馬場美濃守氏勝が築いた山城で徳川軍の攻めにより落城したそうです。
諏訪原城跡には諏訪神社があります。
資料館もありました。
合戦の様子が模型で再現されています。
城というと姫路城や松本城のようなものを思い浮かべますが、このようなシンプルなものも城と言ったそうです。
菊川坂
諏訪原城跡のすぐ近くに菊川坂の入口があります。
休憩所がありました。ここで30分ほど休憩しました。
下りの石畳は非常にキツかったので、コンクリートがある坂に関しては積極的にコンクリートの道を歩きました。
途中道路を渡り菊川坂の石畳に入ります。
江戸時代の石畳を161m残しているそうです。
石畳の中には水が湧き出ていて一歩間違えると足が濡れてしまうようなつくりでした。
間の宿菊川
菊川坂を下ると金谷と日坂の間の宿である菊川があります。
左を見ると島田金谷バイパスが走っています。
小夜の中山を越えるために空中に作られています。
歩きだとこの高さの峠を越える必要があり、かなり怖気づいていました。
普通2宿間の距離が3~4里あるときに間の宿が置かれましたが、金谷宿と日坂宿のように1里24町と短い距離でも急所難所が続く場合は特別に間の宿が置かれたそうです。
間の宿では旅人の宿泊は禁止されていたようです。
旅人に本格的な料理を出すことも禁止されていたようで、菜飯田楽という名物が生まれたそうです。
ja.wikipedia.org
「菊川」の地名の由来となった石がありました。
また、中納言宗行卿詩碑と日野俊基歌碑があります。
この2人は鎌倉幕府追討を企てて死罪となったそうです。
いよいよ小夜の中山へ突入というところで入口が封鎖されていました。
戸惑っていたら迂回路がありました。
この坂を登ると先程封鎖されていた道とぶつかります。
小夜の中山のルートは写真の左だそうですが、私は間違えて右側の下り坂に行ってしまいました。
途中でこのルートは小夜の中山ではないと気づきました。
最悪、入口に戻ってくればよいと思ったので火剣坊大権現に分岐するルートで右に軌道修正し、小夜の中山方面に戻りました。
幸いなことに車道に出ることができ、小夜の中山に軌道修正できました。
鎧塚
1335年に北条時行の一族の名越太郎邦時が今川頼国と戦い討ち死した場所だそうです。
藤原家隆歌碑
「ふるさとに聞きしあらしの声もにず忘れね人をさやの中山」
涼み松跡
芭蕉句碑「命なりわずかの笠の下涼み」という句から涼み松と呼ばれるようになったそうです。
芭蕉句碑
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」
広重絵碑
広重画「小夜の中山」のモニュメントがあります。
日坂~掛川
秋葉常夜燈
1856年建立され1998年に撤去復元された常夜燈があります。
本陣跡の広場には平和への道標と呼ばれる碑がありました。
扇屋本陣跡
本陣の看板には引き出しがあり、日坂宿のパンフレットが配布されていました。
旧旅籠池田屋
現在、割烹旅館として利用されているようです。
日坂宿は興津宿のように現在でも残っている建造物が多かったです。
秋葉山常夜燈
日坂宿はしばらしば火災にあっているためか火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んだったそうです。
秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる明かりを灯すためのもので、辻など人目につきやすい場所に建てられたそうです。
下木戸跡
日坂宿の京方入口だそうです。
成瀬大域出生の地
明治天皇に使えた書家だそうです。
岡パン
メロンパンなるものが有名だそうです。
夕方だったので寄ることができませんでした。
tabelog.com
事任八幡宮本宮
願い事(こと)が任(まま)に叶うということからこの名前だそうです。
本宮は階段が272段あり、小夜の中山を越えた足に追い打ちを掛けました。
塩井神社
対岸に鎮座しています。
塩水が湧き出させたという言われからこの名前になったそうです。
伊達方の一里塚跡
日本橋から57里目だそうです。