掛川~袋井
本陣
掛川宿本陣跡は飲み屋街となっていました。
本陣の説明書きがありました。
本陣の宿泊には、宿泊者から謝礼が支払われたものの宿泊費に見合わなかったそうです。そのため、幕府から苗字帯刀、門や玄関、上段の間を設けることができるという特権を与えられたそうです。
名誉であった反面、やはり負担が大きく、没落していく本陣も多かったそうです。
掛川城
掛川駅から本陣方面に歩いていくと掛川城が見えます。
寄るつもりはありませんでしたが、空いてそうだったので寄ることにしました。
城内は資料館になっていました。
城の知名度で言うと松本城のほうが断然上ですが、掛川城の方が自由に見学ができ撮影することができたので満足でした。
至るところに「石落とし」という下にいる人間に対し石を落として攻撃するための空洞がありました。
天守閣からは掛川の町を見渡すことが出来ます。
城の見学を終えたら、矢を放つための壁沿いを歩き、御殿へ向かいます。
掛川城御殿
城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されたそうです。
現存する城郭御殿は掛川城を含め4つしか無いそうです。
書院造と呼ばれる建築様式で、現存するものは1855年に復元されたものだそうです。
高山の陣屋に雰囲気が似ているなと思いました。
御殿からはこのように城を見ることが出来ます。
また、御殿にも資料館がありました。
東海道を歩いている身からすると、やはり大名行列の展示が興味深かったです。
十九首塚
940年、藤原秀郷が関東を制覇した平将門を討伐し将門の家臣19人の首を持って上洛中していたそうです。
掛川の地で朝廷の勅使と会い、検死の跡、この地に葬ったそうです。
写真右の川で首を洗ったことから、「血洗川」と呼ばれているそうです。
また、この地に首を懸けていたことから、「懸川」→「掛川」という地名の由来にもなっているそうです。
入口には常夜燈があります。
寺の奥に墓地があり、その更に奥に公園があり、公園の端に十九首塚があります。
しばらく逆川沿いを歩き、右の逆川と左の蔵真川の合流地点にかかる山麓橋を渡りました。
本来の東海道は、逆川を渡り、さらに蔵真川を渡る写真奥のルートだったそうです。
天竜浜名湖鉄道の西掛川駅の高架をくぐり袋井市方面に向かっていきました。
YouTuberのスーツさん曰く、天竜浜名湖鉄道は「戦争で東海道線が攻撃を受け機能しなくなっても中央線にアクセスできるように」という役割も期待されていたようです。
youtu.be
大池一里塚跡
江戸日本橋から59里目だそうです。
善光寺・仲道寺
階段を登ると善光寺があります。
阿弥陀物は坂上田村麻呂の守り本尊だったそうです。
蜘蛛の巣があり、阿弥陀物の姿は確認しませんでした。
善光寺の奥には仲道寺があります。
「仲道寺」はその漢字の意味の通り、「京と江戸の道の中間」が名前の由来だそうです。
原川の松並木
今まで東海道を歩いてきた中で最も立派な松並木でした。(※原の千本松原は東海道の正規ルートではないので除く)
かなり多い数のように感じましたが、実際は松食虫の被害により、わずかに残っている程度だそうです。
周囲の田んぼの姿と相まって東海道の中でも上位の映えスポットでした。
金西寺
泥中から現れた薬師瑠璃光如来は原川薬師と呼ばれ、信仰を集めたそうです。
ココで15分ほど休憩を取らせてもらいました。
休憩に掛川駅の売店で購入したあんぱん饅頭を食べました。
あんぱん饅頭は掛川の銘菓だそうで、温かい掛川茶と一緒に食べたい味でした。
この地は「間の宿 原川」と呼ばれ掛川と袋井の休憩地として提供されたようです。
「間の宿 菊川」でも触れましたが、間の宿では宿場町と違い、宿泊業を営むことは禁じられていたそうです。
自然石道標
そして金西寺を出ると自然石道標に当たります。
「是従和田岡村原谷村ヲ経テ森町ニ通ズ」と刻まれているようです。
森町は清水次郎長の子分である森の石松という人物の出身地だそうです。
清水次郎長というのは『ちびまるこ』の世界でしか聞いたことがなかったので、「静岡を歩いているんだなあ」という気分に改めて浸りました。
原野谷川にかかる同心橋を渡ります。
後で確認したら、もう少し歩くと花茣蓙公園に通じる一般道があったようで、わざわざ険しい道を通っていたようです。
富士浅間宮赤鳥居
北に800メートル歩いたところにある富士浅間宮の大鳥居です。
意外と歴史が長く、1590年に建立されたものだそうです。
久津部一里塚
江戸日本橋から60里目だそうです。
袋井東小学校
「東海道53次どまん中東小学校」の看板があり、ついつい撮ってしまいました。
どまん中東があれば、どまん中西もあり、後に訪れます。
七つ森神社
小夜の中山に怪鳥が現れ、怪鳥退治に朝廷から派遣された七人の武士が返り討ちに会い、この地に葬られたそうです。
小夜の中山は前回の歩き旅で行きましたが、刀鍛冶の話や今回の話など、伝説が多い地だなと思いました。
また松並木が続き大通りに出ます。
新屋の秋葉山常夜灯
木造屋形の常夜灯です。
袋井〜見附
これより袋井宿碑
袋井宿の江戸方口です。
東本陣跡
問屋場を兼ねたそうです。
西見附跡
袋井宿の西口だそうです。
袋井宿は東から西の距離がかなり短いように感じました。
袋井宿公園よりコチラのほうが静かだったので、コチラで休憩しておけば良かったと思いました。
西見附から見える宇刈川に架かる御幸橋を渡ります。
どまんなか小学校2校目を発見しました。
袋井松並木の近くにあったのは、どまんなか東小学校でしたが、今回はどまんなか西小学校でした。
「どまんなか」と名付ける酒屋や居酒屋があったり、みんな「どまんなか」の名を名乗りたいんだなと思いました。
川井という信号で県道の大通りと交わります。
県道ならではの大型商店がありました。
県道から右に逸れ、再び静かな通りに入ります。
この通りは右を見渡すと北海道のような地平線まで続く農道がありエモかったです。
木原一里塚跡
江戸日本橋から61里目だそうです。
右手側に碑が建っています。
そして数十メートル歩くと、左手側にも復元があります。
三ケ野松並木
松並木があり、鎌倉・大正・明治・江戸時代の道があります。
鎌倉の道は、左に逸れてから山を登るものだそうです。
右が大正の道で、左が明治の道です。
大正の道はおそらく県道に繋がっていると思います。
明治の道を進むと坂に登っていきます。
明治の道は車が通れるくらい緩やかで整備されていました。
明治の道を少し行くと江戸の道があります。江戸の道は明治の道に比べて狭く急でした。
ただ落ち葉も掃かれており非常に歩きやすかったです。
鎌倉・江戸の道は大日堂という場所に繋がっています。
武田信玄が木原に布陣を置くと、本田忠勝がここにある松に登り武田勢の動向を物件したそうです。
その松は「本田平八郎物見の松」と呼ばれていたそうですが、今は存在していないようです。
大日堂は山の中かと思いきや、すぐ住宅街に行けるくらいの場所でした。
途中に先程の明治の道につながる合流がありました。
行人坂
行人坂を登ると再び県道と合流します。
遠州鈴ヶ森刑場跡
日本左衛門の首が晒されたそうです。
日本左衛門とは江戸時代中期に諸国を荒らした盗賊だそうです。
ja.wikipedia.org
秋葉山常夜灯
1915年建立だそうです。
この地は浜松に近いだけあり、秋葉信仰がかなり盛んだったそうです。
見附宿〜浜松宿
これより見附宿
東海道からは少しズレていましたが、県道から見附宿への入口にありました。
東木戸跡
見附宿江戸方の木戸だったそうです。
阿多古山一里塚
江戸日本橋から62里目だそうです。
神社の裏にあり、神社まで急な階段を登る必要がありました。
境内に南塚があります。
見附の町を眺めることができます。
江戸時代の旅人もここから見附の町を眺めたそうです。
本陣跡
宗教施設になっています。
旧見附学校
現存する日本最古の洋風の木造小学校校舎だそうです。
旧見附学校の前にあるこちらのベンチで20分ほど休憩をしました。
くろん坊様
インド人の旅僧が手にかけられ金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったことが起こりだそうです。
ここから天竜川までは、このような道をずっと直進していました。
宮之一色一里塚
江戸日本橋から63里目だそうです。
温泉があったので、正直入って行きたかったです。
常夜燈
常夜灯は「陸の灯台」という表現が良かったです。
進んでいくにつれ道路の幅も狭まり自動車の台数が減っていきました。
明治天皇御座所跡碑
天竜橋跡
天竜川治水祈念公園
天竜川橋・新天竜川橋
天竜川橋は歩行者用道路がありません。
そのため、すこし逸れバイパスが走る新天竜川橋を歩きました。
新天竜川橋を渡っている間に夕日が沈む様子を見ることができました。
そして、国1では250kmの地点まで歩けたことに感動しました。
六折神社
この通りは横町通りというそうです。
安間起点・安間一里塚
見附宿での起点とは別にここも姫街道に続いているそうです。
安間一里塚(江戸日本橋から64里目)があったそうですが見当たりませんでした。
ここから先、とにかく一本道を歩きます。
松並木も多少ありましたが、史跡などはあまりないです。
新幹線の時間も差し迫っていたので、撮影は控えめに早歩きで進みました。
浜松駅が近づくにつれ、徐々に都会になってきました。
次の日から凧揚げで有名な浜松の祭が始まるそうで、前夜祭的なものが行われていました。
馬込一里塚
江戸日本橋から65里目だそうです。